第4回 坂上田村麻呂の墓(将軍塚)


 山科についてご紹介していく「山科めぐり」。4回目の今回は、山科区勧修寺にある坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の墓に行きました。

坂上田村麻呂と山科

 平安前期の武將・坂上田村麻呂は、801年(延暦20年)に征夷大將軍となり、遠く陸奥(今の青森県・岩手県・宮城県・福島県のあたり)に出陣して蝦夷(えみし)を討ち、胆沢城(いざわじょう)などを築いたと言われています。最初の征夷大將軍のように子どものころから思っていましたが、実は2人目とのこと。
 京の都に帰ってからも「薬子(くすこ)の変」などで活躍し、後世の武士たちから尊敬されるようになりました。
 坂上田村麻呂はまた仏教の信仰も深かったことで知られています。798年(延暦17年)に京都有数の観光名所である清水寺を創建したともいわれています(清水寺の開山自体は、778年(宝亀9年)延鎮上人による)。
 亡くなったときには、嵯峨天皇の勅によってこの地に埋められることになりました。山科は平安京から東へ出入りするときの玄関口だったため、平安京を守ってもらえることを期待したのでしょう。甲冑・剣や弓矢を具した姿で棺におさめられ、平安京に向かって立ったまま葬られたそうです。

▲坂上田村麻呂墓の石碑。墓の修復の際につくられた。
▲標識。北側は遊具のあるふつうの公園であり、南側にお墓がある。

ひっそりと佇む将軍塚

 このお墓は1895年(明治28年)に平安遷都1100年祭に際し整備されたとのことですが、住宅地の公園のなかにひっそりあり、石碑のひび割れや、やや傾いた様子を見ると疲れた感じがします。もう京の都は守護してもらえないかもしれません。

 余談ですが、坂上田村麻呂の墓だとされているところがあと2か所あります。一つは東山にある将軍塚で、坂上田村麻呂が亡くなった土地です。もう一つは、前回ご紹介した砥の粉工場の同じ通りを東に行ったところに「西野山古墳」があり、2007年にこちらがお墓だという説が発表されているそうです。あまりにも昔の話なので難しいところですが、これもまた歴史のロマンですね。
▲小円墳だけを斜めから見たところ。すぐ近くに住宅や小学校がある。
▲俯瞰して見たところ。石碑が少し傾いているのがわかる。


 

2020年09月04日