山科についてご紹介していく「山科めぐり」。4回目の今回は、山科区勧修寺にある坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の墓に行きました。
坂上田村麻呂と山科
平安前期の武將・坂上田村麻呂は、801年(延暦20年)に征夷大將軍となり、遠く陸奥(今の青森県・岩手県・宮城県・福島県のあたり)に出陣して蝦夷(えみし)を討ち、胆沢城(いざわじょう)などを築いたと言われています。最初の征夷大將軍のように子どものころから思っていましたが、実は2人目とのこと。 |
ひっそりと佇む将軍塚
このお墓は1895年(明治28年)に平安遷都1100年祭に際し整備されたとのことですが、住宅地の公園のなかにひっそりあり、石碑のひび割れや、やや傾いた様子を見ると疲れた感じがします。もう京の都は守護してもらえないかもしれません。 余談ですが、坂上田村麻呂の墓だとされているところがあと2か所あります。一つは東山にある将軍塚で、坂上田村麻呂が亡くなった土地です。もう一つは、前回ご紹介した砥の粉工場の同じ通りを東に行ったところに「西野山古墳」があり、2007年にこちらがお墓だという説が発表されているそうです。あまりにも昔の話なので難しいところですが、これもまた歴史のロマンですね。
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